複雑で動的なコーチング文脈
授業や研修会などで、「○○はどうすればよいでしょうか」のような質問を受けることが頻繁にあります。この問いに対する答えはほぼ決まって「その状況によって変わってきますが・・・」という枕詞からスタートします。その場が持つ特徴のことをまとめて「文脈」、あるいは英語で「コンテクスト(Context)」と呼んでいます。この文脈がとても複雑で動的であることがコーチングを困難にしていると同時に、とてもチャレンジングなやりがいのあるものにしていると思います。Mallett(2007)はこの文脈が複雑で動的であるということをMuddiness of coaching context(混沌としたコーチング文脈)と表現しています。
文脈を構成する要素を完全に特定することはできません。代表的なものを挙げるとすれば、コーチング対象者の特性(年齢、性別、身長、体重、体脂肪率、筋力、持久力、兄弟構成、思考、過去の経験等)、実施するスポーツの特徴(競技特性、ルール、施設・用具等)、スポーツシステム(大会システム、協会、育成システム、国のスポーツシステム等)、コーチングが行われる場の特徴(文化、気候、言語、施設、時間等)などが挙げられるでしょうか。そして、個々の要素がお互いに関係し、影響し合っているため、一つのことに気をとられてしまうと、他の要素の変化に気づかないといったことも起こってしまいます。人間の数が増えれば増えるほど、関係性は複雑になっていきます。また、それぞれの要素間の関係はその瞬間のみに起こるわけではなく、時間的、場所的な離れ具合によっても影響の出方が変わってくるから厄介です。
どのようなコーチングが効果的かを考えるときには、この文脈の理解が適切にできているかどうかがクリティカルな要因となります。だからこそ、冒頭に述べたように「どうすれば・・・」を問われたときに、「その状況によって・・・(英語だとIt depends ...)」と答えざるを得ないのです。そして、その後に続ける話は、あくまでも一般論だったり、私の個人的な経験から推察した案であり、絶対的な解決策とはなり得ません。
文脈を理解し、効果的なコーチングにつなげる
そう考えると、効果的なコーチングを行うことができているコーチは、文脈を読み取る能力が優れているということができると思います。しっかりと観察をして、固定概念に囚われない柔軟な、さまざまな観点からの分析をおこなって、その時々の文脈をしっかりと読み取っているからこそ、その後の行動がより適切なものになっていくのでしょう。
観察力だけでなく、1月16日の記事「さまざまな質問を使い分ける」でも述べたとおり、うまく質問をしながら、アスリートが考えていることや感じていることを聞き出すことも重要な能力といえます。アスリート本人も頭の中や心の中にはあるのだけれど言葉として表現しにくいことを、コーチがオープンクエスチョンで問いかけて刺激してやることでうまく語れるようになるかもしれません。そうすれば、相互理解につながり、さまざまな点で多くのメリットがあることでしょう。
たとえ、ものすごく観察力があり、質問が上手くできて、相手から多くの情報を得たとしても、それを解釈しているのはコーチであり、コーチの価値観というフィルターを通して得られた「このアスリートはおそらくこう思っているのだろう」という推察に過ぎません。双子であっても親子であっても完全に他者の意識を読み取ることは不可能でしょうし、完全に理解できると思わないほうが得策です。だからこそ、継続的に観察をつづけ、問いかけ、より理解を深めようとする態度が重要なのだといえます。
コーチが複雑な文脈を読み取った後、その情報にもとづいて意思決定を行い、適切であろうと思われる行動を起こす(行動しないという選択も含め)ことになります。この意思決定を行う際には、その時点でそれまでにコーチがさまざまな経験を通して構築してきた価値観や知識などをフルに活用していることでしょう。同じ文脈に出会ったとしても、その文脈をどう読み取ったのか、それまでにどのような価値観や知識などを構築してきたのかによって、その後現れる行動は異なってきます。より良いコーチングを実践するためには、より良い意思決定ができるような知識を構築していくことが求められ、一つひとつの行動の経験から得られた学びを自分のデータベースの中に入れ、次の意思決定の糧とする必要があります。
そういう意味では、絶対的な正解を求めることはコーチングにおいて不可能であると思っておいたほうが得策に聞こえます。実験研究のように対照群(働きかけを行った群の結果が本当に働きかけの結果であったかどうかを判断するために、多くの場合、狙いとする働きかけ以外の条件を同じにした対照群を置いておく)を置くことが極めて困難なのがコーチングの現場です。だからこそ、構造化された即興(Structured improvisation, Cushion, 2007)の能力を高めていく、つまり、過去から学び、次の実践で現場の状況を読んで意思決定を行い意図する行動をしていき、そこからまた学び取っていく能力を高めていくことが求められるのです。コーチは学び続ける必要があると多くの人が言っているのも納得できます。
コーチング文脈に関わるコーチ資格システムの欠陥
効果的なコーチングは文脈に依存するという考えは、コーチ資格を含む、コーチの学習を考える上でも非常に重要なものです。コーチ資格の多くは、いくつかのレベルに分けられており、徐々にステップアップしていくようにデザインされています。そして、その資格はアスリートの競技レベルに比例するように作られていることがほとんどです。しかし、コーチとしての能力はアスリートの競技レベルとは比例しません。国際大会を戦うハイパフォーマンススポーツのコーチがコーチとしての能力が最も高いという保証はどこにもありません。ハイパフォーマンススポーツにおいて、高いことが確実なのはアスリートの能力であってコーチの能力ではないのですから。
この点は、現在のコーチ資格システムの大きな欠陥であると思っています。現状のシステムでは、ジュニアスポーツを指導しているコーチが自分のコーチングスキルを高めたい場合、公的な学びの機会が限られてしまうのです。地域のジュニアスポーツに魅力を感じ、その文脈でコーチングスキルを磨きたいと思っても、高いレベルのコーチ資格講習を受講しようとすると、要件が全国大会、国際大会レベルの指導となっていれば、自分向けではないと判断してしまいます。地域に密着してコーチングを行っているコーチが、最も高いレベルの資格を取得できる(JSPOの場合だと共通IV)ようなシステムが必要でしょう。全てのコーチが自分の成長を楽しみ、システムがそれを支援できるような形にしなければならないと考えています。このサイトを始めた理由の一つが、どこにいてもコーチングの質を高めていくための学びがしたいと願う人に対して、学びの場を提供することでした。コーチングシステム改善に力を注ぐと同時に、成長するアスリートを目の前に待っていられない人にむけて、このサイトも充実させていきたいと思っています。(伊藤雅充)■
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